わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
見よ、わたしは不義のなかに生れました。 わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
だれが汚れたもののうちから清いものを 出すことができようか、ひとりもない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、
主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。
それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
わたしは失われた羊のように迷い出ました。 あなたのしもべを捜し出してください。 わたしはあなたの戒めを忘れないからです。
見よ、わたしはあなたのさとしを慕います。 あなたの義をもって、わたしを生かしてください。
それで人はどうして神の前に正しくありえようか。 女から生れた者がどうして清くありえようか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。
わたしはあなたのさとしを選びました。 あなたのみ手を、常にわが助けとしてください。
われわれはみな汚れた人のようになり、 われわれの正しい行いは、 ことごとく汚れた衣のようである。 われわれはみな木の葉のように枯れ、 われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
どうかわたしの道を堅くして、 あなたの定めを守らせてください。
あなたがわたしの心を広くされるとき、 わたしはあなたの戒めの道を走ります。